私には75歳になる母親がいます。先日、久しぶりに昼ご飯を一緒に食べました。おかげさまで母親は元気です。一時は風邪をこじらせて入院、歩くこともおぼつかない状況でした。このまま体力が衰退するのではないかと心配しましたが、そこから劇的に回復。やはり母親は強い人です。
「何を食べたい?」と私が聞きます。母親は食が細く、油濃い食べ物は好みません。「あ、そう言えば大戸屋のそばが美味しい」と、珍しく母親の方からリクエスト。「はいよろこんで(こっちのけんと風に)」とは言っていませんが(笑)、そのくらいのテンションになりました。
大戸屋と言えば、私の注文は一択。「鶏と野菜の黒酢あん」は最高に美味しい。二人とも迷うことなく注文が終わると、すぐに会話が始まります。私は母親に聞きたいことがありました。私と妹は、希望する進路を選択して現在に至ります。どんな気持ちでそうしてくれたのか、気になっていました。
私は浪人生、妹は私立高校に通学、多額の学費が必要になります。当時の母親は離婚していて、経済的な余裕はなかったはずです。にもかかわらず、どうして許してくれたのか。私が母親の立場なら、夢を諦めるよう子供を説得してしまったかもしれません。
「私には負い目があった」と、母親は話します。生活費を賄うために、必死に働く姿は鮮明な記憶として残っています。一緒に過ごす時間が少なく、一般家庭の母親像とは違っていたように思います。私はそんな母親を、心のどこかで尊敬をしていました。
「一緒に食卓を囲むことができない」「3時のおやつを準備できない」「学校からの帰宅を迎えられない」などと、母親として子供にしてやれないことが多かったと言うのです。だからこそ、せめて進路は応援してあげたいと。それこそが、母親の私と妹に対する愛情表現だったのです。
確かに、当時の友達が羨ましかった。家に帰れば母親がいて、おやつもあって、食事も一緒にできる。だから、母親が仕事ばかりしていることが寂しく感じることもありました。特に夕飯は出前に頼ることが多かったので、母親の作るご飯が食べたいと心底願ったものです。
気が付くと1時間以上が経過。母親との心が通い合った時間は、私の心にエネルギーを注入してくれました。私は母親の想いを、しっかり受け止めることができたのです。私が生まれてから今に至るまで、母親に愛されてきたことを実感。改めて感謝の念が湧き上がってきます。
私も母親と同じように、子供たちに愛情を注いていきたいと思います。「お金」が全てではないですが、叶えられることがあるのも事実。そのために、私は成功しなければならない義務があるのです。大切な人を喜ばせたい、これからもその一点に向かって進みます。
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